海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

関西視察②舞鶴

前回までのあらすじ↓

 

第一夜は西舞鶴で過ごすことにした。

 

茶又旅館にて

列車の都合上、この日の宿泊は東舞鶴か西舞鶴の二択。本当は若狭湾のどこかの浜までバスで出て、民宿でゆっくりしたかったが、土日にひとりで訪ねたら迷惑かなーなどと思いつつ、結局は時間の都合で叶わなかった。もっと時間をかけて、車で来て楽しめたらよかったな、と思った。


ちなみにお財布が許さなかったが、ここの食事と宿泊はとても気になっていた。

 

まちなかの宿泊なら、真っ先に考えつくのがゲストハウス。しかし、どうにもピンとくるGHが見つからない。
そんなこんなでGoogleマップをズームして見ていたら、ふと一軒の旅館を見つけた。

茶又旅館。ブラウザで調べてみたところ、重文指定されている素泊まりの旅館なのだとか。これはスルーできないと思い、電話で予約。スムーズに予約が取れた。

 

宿泊の翌朝、宿の皆さんの許諾を得て、内部をいろいろ写真に撮らせていただいた。

主屋を正面から。淡い朱色の漆喰と木目が美しい

玄関。明かりが少ない分、一つひとつ目に入るものが際立つ

玄関の壁も朱色の漆喰が鮮やか。いやらしい色じゃないからいい

使い込まれた木の階段が、したたかに光っていた

素朴そのもの。館内が暗いので、写真に収めるのが難しい

数年前の西舞鶴駅の時刻表。このまちの生活の一片が窺える

立派なふすま。写真下手くそ勢なので斜めっている

裏の水路は城址のお堀。改修工事の真っ最中だった

宿のおばあさんと、泊まった夜に少し話し込む時間があった。昔は行商人の営業でよく賑わっていたこと、それも大型資本に取って代わられ、今ではロードサイドにドラッグストアばかりになってしまったこと、近代的な東舞鶴のまちとの対照性、大きな雇用先が中舞鶴自衛隊基地くらいになってしまい、優秀な若者はみんな都会に出て行ってしまったこと…………

それでも、情報の感度が高い旅人を中心に、宿泊客数が今ふたたび堅調なのだという。コロナ禍を経て、海の京都にも熱い眼差しが向けられているような気もする。PRには一切資金を投じていないとのことだったので、なおのこと長く続いてほしい旅館だ。

 

ちなみに、歯ブラシは備え付けがあるが、歯磨き粉がない。寝間着もあるし、部屋のコンセントの数も十分あった。

ただ、できたら布団は打ち直してほしいです。チェックアウトするときに言いそびれてしまった…………。

 

舞鶴のまちを歩く

本当は天橋立や伊根を観光しようと思っていたが、朝出遅れたことと、観光地なら別の機会にでも来るだろうと読んだこともあり、予定を変えて舞鶴のまちを歩いてみることにした。

 

旅館のすぐ近くにある若の湯。ここも登録有形文化財に指定されている

宿泊した夜に入浴で足を運んだ。湯温も雰囲気も最高だった

 

何だか珍しい形のアーケード(?)。

でかい切妻。

特徴的な看板。「かしわ」呼びは関西で根強いのだろうか

お地蔵さんたち。確かここは水路の上だったと思う

空が広く、山の稜線が見えると、どことなく安心するものがある

なんだあれ。めっちゃ富士山やん。
調べてみたところ、あれは建部山といって、またの名を「丹後富士」とも呼んだらしい。

 

吉原入江を歩く

ちょっとしたベネチアみたいなところが、舞鶴のまちのはずれにある。城下町を整備するときに、漁師たちを伊佐津川の右岸に住まわせたのが、ここ吉原である。

足を運んだときはちょうど満ち潮のときだったらしく、橋のギリギリまで水があった。

今この吉原で、どれだけの方が水産業に従事しているかはわからないが、当時の土地割りや街並みをよく残しており、どの道を歩いても愉しい。

 

最後の一枚は、恐らく今でもここで水産業を続けている方の軒先だと思われる。

 

もちろん、建物も素敵なものがたくさん残っている。

最後の一枚は、こちらもやはり銭湯で、登録有形文化財に指定されている「日の出湯」だ。

 

中には、営みが抜けて朽ちてしまった建屋もある。

 

あと、建屋は除却したものの、海水が入り込んでいる区割りもある。

ちょっとした湿地帯みたいだ。葦みたいなのまで生えてしまっている。

 

さすがは漁師町、そこかしこに大きな神社がある。

 

だいぶ歩きごたえのあるまちだった。

観光地めいていないので、わかりにくいし多くの人を動かすものでもないが、こういったまちの資源こそ大切にして、認知が遍くなるといいなぁと思う。