海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

読後感想録『ヘンな論文』/サンキュータツオ

だいぶ前の記憶、東京ポッド許可局のサイレント局員たる私は、サンキュータツオ氏(現:東北芸術工科大学 専任講師)の著書『国語辞典を食べ歩く』 を探し求めて本屋に入ったものの、その本の厚さに(読める気がしない……)と思い、どういうわけかその隣にあったこの本を手にした。

 

…………クッソおもしろかった。冷めないうちにその熱をここに放っておく。

 

 

“おもしろがる”をおもしろがる

仮にも私は修士課程を出ており、志ある先輩・同期・後輩の方々が「私は自分の研究でこれを言いたいんだ……!」という自分の内々にある主観を、地域社会からどう掬い上げて客観として論述するか、だいたい年明けあたりから四苦八苦している姿を目にしたり耳にしたりしてきた。
私自身も、その轍を踏んできたつもりだ。

 

かくしてできた論文は大概、「著者がいないと何を言っているのかがよくわからない」ものに終始しがちである。

しかし、この本は違った。扱われている研究論文そのものがおもしろいというのは置いておいて、正気と狂気の間で孤独な言語化に苦しむ研究者の背中を、助走をつけて狂気の沼に突き落としてくれる、そういう一冊である。
わかりにくい研究論文を、わかりやすく噛み砕いてキュレーションしている。

 

本文中の一節を拝借すると、「だから、研究論文は、絵画や作家や歌手と並列の、アウトプットされた「表現」である。」(p.77 ℓℓ.14-15)という一文が、とても的を得ていると思う。都市計画の分野にいた身からすると、殊更に思う。

 

「“おもしろがる”をおもしろがる」という意味では、テレビ番組『マツコの知らない世界』『沼にハマってきいてみた』なども同類だろう。

本書はマニアの口伝によらず、「学会の査読を通った、大真面目かつ客観性・独創性に優れた研究論文」に着目している点に新規性がある。
このため、著者たるタツオ氏が後にファーストオーサーを訪問しては、「まさかあれを分野外の方に読んでいただけるとは」という件が随所に記載されている。

 

 

…………ちょっとカオスになってしまった。
私のような、論文を査読に通したいけどモチベ不足の人間にこそ読んでほしい。

 

研究論文の意味とは

なにかと「実学的な研究」ばかりがもてはやされる昨今である。

*1

 

例えば本文の「十本目 現役「床山」アンケート」。そもそも“「床山」ってナニ……!?”というところからである。

 

…………すげえ。力士じゃないけど相撲部屋に入門することってあるんだ。

 

こんなページも発見した。なんだこれ知らなかったしおもしろいかよ。

 

こんな具合に、一部界隈じゃ当たり前だけど、おもしろい切り取り方をして遍く知らしめてみたら、価値付けや認知の浸透が進んだ、ということは往々にしてある。それが、途絶えかけていた文化芸能の存続につながったり、もっと別のスタイルで健全に持続したり等々。

 

貨幣換算困難な研究を存続させるべきひとつの理由としては、こうした貨幣換算困難な文化や現象に対して、定性的ではあるが価値付けができ得るから、というのが挙げられるように思う。

 

もうひとつは「十三本目 「湯たんぽ」異聞」から読み取れる、数式化困難な社会の法則が明らかになる点だが、これはぜひ本書を読んでいただきたい。

 

これも研究材料になるのでは?

「八本目 「なぞかけ」の法則」を読んでいて思ったことがある。

 

私が学部一年生の頃、教養の授業で「コラムランド」という風変わりな授業を取っていた。
受講生が持ち回り(+乱入創作可)で、B5横置き縦書き、各回のテーマに沿って自由に文章創作をする、というものだった。

そのときの呪物が、まだ手元にある…………。
各回における評価などのデータがあれば、弊学の学生がどんな文章をおもしろいととらえるかを分析できそうなものだが、当の開講されていた先生が21年度末で退官されたとのことなので、実際にできるかどうかは怪しい。

 

実際、おもしろくて文章力も養われる良い授業だったことは間違いない。教育改悪で廃講に追い込まれたのは無念であった。

 

なんだか支離滅裂になってしまった感が否めないが、学問を楽しむという肌感を楽しめる秀逸な一冊だった。続編もすぐまた手に取りたい。

 

 

追記:東京大学で「コラムランド」が転生していた件について

*1:国立大学法人運営費交付金」のところ、“メリハリ付けの強化等により、自ら意欲的に改革に取り組む国立大学を支援する”と記載があるのは、「意志あって改革をしない国立大学は支援の対象外です」……ってコト!?