海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

関西視察③宇治(建築学会・景観ルックイン)

前回までのあらすじ↓

本当は丹波篠山とか国立民族学博物館とか、あと上狛の茶問屋街にも足を運んだのだが、あまりにも日が経ちすぎ、感想を書こうにも鮮度が落ちている。せめてこの一連のメインディッシュのことくらいは書き残しておこうと思う。

 

ことはじめ

大学・大学院時代の専攻の先輩から、「日本建築学会 都市計画委員会 グローカル景観デザイン小委員会」というところが主催する「景観ルックイン」にお誘いいただいた。端的に言えば巡検とパネルディスカッションのセットだ。

今回で30回目を数えるものの、コロナ禍で3年間実地開催がなかったとのこと。
今回は「宇治茶の文化的景観」をテーマに据えての開催……ということで、建築学会には縁もゆかりもなかった私も参加することになった。茶流通と空間論を結びつけた議論なんて超レアなので、こういう機会は非常に嬉しかった。

 

まずは山本甚次郎邸へ。製茶工場の見学

9月11日(月)の13時。JR宇治駅前に集合。参加者およそ46人のうち、建築学徒の皆さんが26人も。若い~~~~~、!!って思いながら、3班にわかれたうちの一班に混ざった。

 

まず訪ねたのは、JR宇治駅にほど近い宇治橋通りにある「山本甚次郎邸の製茶工場」。
街中にあるものの、立ち位置は「茶農家さん」である。

オモテは小売りができる店間になっており、その裏に製茶工場がある。よく旧市街で見かける、表は店間や事務所で裏や二階が工房、という造りの例に漏れない。静岡の街中にある茶問屋さんも、大概二階に仕上工場を抱えている。

 

製茶工場。煉瓦造の製茶機械が非常に印象に残る……と思いきや、こいつは乾燥炉。
機械の端から撮影しており、駆体の全長は真ん中で光っている蛍光灯のあたりまでしかない。大正末期の発明品なので、当然電力駆動ではない。

乾燥炉の手前には、冷却用の散茶機がある。レーンの下側から風を送り込み、蒸した茶葉を高く飛ばすことで、冷却工程と重なった茶葉を引き剝がす工程を兼ねている。

この手前には蒸熱用の機械もあったはずなのだが、写真には残っていなかった。2階にあったような気もするが、いずれにしても蒸熱用の設備はそれほど大きくないのだと思う。

 

そう。煎茶の製茶工程に比べると、物理的に占有する面積がはるかに少ない。
煎茶の場合、最も規模の小さい35kラインは見たことがないのだが、次点である60kラインは最低でもここの3倍近くの面積を取らないと、設備が入りきらなかった記憶がある。ひと昔前の茶部屋でさえも、こんなにコンパクトではなかったはずだ。

専有面積の差分のほとんどが、碾茶の製茶工程には存在しない部分の機械である。葉打ちは散茶に代えられており、揉みは工程そのものが存在しない。

一度解体を経験したのだろうか、部材にはメモ書きが見られる

もちろん、近代化の進んだ機械ならもう少し違うのだろうが、同じ日本茶でもここまで違うか……という感想を持った。そりゃあ静岡の煎茶産地で抹茶をやろうというのは難しいわけだ。材料もそうだが、システムが全然違う。

 

山本甚次郎オリジナルの抹茶ジェラート。牛乳の味とよくマッチしていて美味。

 

もう100年近くを生きているこの機械。壊れた部品は山本さんご自身で見繕っているらしい。機械全体の仕組みを熟知しているからこそ成せる技だが、なかなか手間がかかっていそう。

 

ちなみに、店間で売る用の抹茶をつくるために、2台だけだが石臼もある。

 

堀井七茗園の抹茶工場へ

次に訪ねた堀井七茗園さん。ここはいわゆる「茶商さん」だ。

宇治における茶商さんの役目で特徴的なのは、合組後に「石臼挽き」をするところ。煎茶でも同様に茶葉の形状を整える役割はあるものの、石臼という道具を用いて、ここまで大きく茶葉の形状を変えるとなると、ひとつの役割として合組とは独立しているように見える。

 

石臼のミクロ接写。荒茶を真ん中に流し込むので、中心の溝は深めに切られている。外縁に向かうに従って、その溝は浅くなっていく。

 

専務さん(?)に尋ねたところ、宇治の茶問屋は江戸期から抹茶を取り扱う比重が大きい一方で、上狛は静岡と同様に、明治期に日本茶の輸出が伸びたときに隆興したところで、取り扱うのはもっぱら煎茶だという。
どうして上狛だったのかというと、茶産地に近接していながら、木津川の川運で大阪まで運び出すことが容易な場所だったから……らしい。

 

堀井七茗園・店舗へ

六代目園主の堀井社長から、様々なお話を伺うことができた。

  • 宇治から入った山間地の抹茶は「松のみどり」、宇治川が形成した扇状地で栽培された抹茶は「竹のみどり」と呼ばれる。
  • 昔は「ほいろ師さん」や「お茶よりさん」などが、日本酒の杜氏さんの如く出稼ぎに来ていた。記憶の中では天理から来ている人を覚えている。お茶よりさんは茶摘み要員でもあった。
  • 自園は店舗の近く。他にも特定の農家さんと半世紀も直接契約している。

「出稼ぎの受け皿」という視点は、静岡の茶業ではあまり見られなかった気がする。あくまで予想だが、宇治や山城に比べて静岡は茶業が面的に広く営まれていたため、茶業地域の外縁を除けば、だいたいどの地域も繁忙期が重なること、静岡では生産よりも流通で出稼ぎ要員が活躍していたこと*1が、出稼ぎの規模感に違いをもたらしていたのではないか。加えて、農山村地域同士の往来という観点だと、畿内(特に京阪神付近)よりも静岡県内のほうが難易度が高い気がする。

 

寺川茶園へ

中宇治の街中には、今でも茶園が残されている。そのうちの一ヶ所に足を運ぶことができた。

地図の中心がその茶園。航空写真にしてちょっと引いてみると、ほかにも茶園があるのがよくわかる。

そして、茶園には寒冷紗をかけるためのポールが立っていることも、航空写真からよくわかる。

実際はこんな感じ。碾茶は摘採の2週間ほど前になると、寒冷紗をかけて日光を遮る。この点も一般的な煎茶とは異なる。

 

管理している農家さんのマメさがうかがえる。敷き草は遠いと琵琶湖あたりからも取ってくることがあるとか。このあたりには茅場がないのだろうか。

それと、住宅街に隣接する茶園は、品質に影響が出るとか、逆に居住環境側に影響が出るとか、そういったことはクリアできているのだろうか。生産緑地の持続性という観点からも気になる。

 

パネルディスカッション

「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」へ移動してパネルディスカッション。雑感だけ書き留めておくが、すでに「宇治茶の文化的景観」としてユネスコ世界文化遺産への登録に向けて、府庁や委員会が諸々の調整を済ませて手を挙げている状態なので、本当に何の参考にもできない雑感である。

 

  • 茶業振興に向けて、景観という側面の価値を官民ともに認知していることは、とても素晴らしいと思う。このような取り組みは他には見られない。
  • しかし、茶農家さんと茶商さん(あるいはそれよりも下流)をつなぐシステムは、小規模な事業体が主軸となる点のみを共通点としながら、日本国内に数多ある産地ごとに大きく異なるものであり、一括りに宇治茶日本茶を代表できる理由が見当たらない
  • 歴史的側面を考慮すれば、明治期に入るまでは宇治が日本茶の中心地であったことは事実だが、その後の国内各地における日本茶の繁栄を鑑みれば、歴史的側面にどれほどの重要性があるかについて議論が不足しているように思われる。
  • また、多くの食品流通の例に漏れず、生産者と問屋の力関係が歪な可能性も窺えるが、言及がない。現状の茶流通システムは手放しに評価できるものなのか、その実態について把握が必要だと考えられる。

 

繰り返しにはなるが、空間論から食品流通を取り扱う議論は非常に貴重で、様々な視点からの議論を混ぜながら、健全な継承のためにうまく役立てていきたいところだと、私は強く思った。

 

非常に刺激的な回へ、非会員にも関わらず参加をご快諾いただいた小委員会の皆様に、末筆ながら御礼申し上げます。

*1:いわゆる才取さんのこと。