海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

イカれた終電に乗った話

24時58分熱海発、品川行の東海道線という、イカれ終電に乗る機会があった。

ことのはじまり:なぜ熱海駅で足止めを食っていたか

緑内障の点眼薬を切らしていることが発覚し、スケジュールにゆとりのあった一日で、慌てて地元の眼科を受診していた。その帰り道で伊東に立ち寄り、祖母と会い、本屋に行き、ご飯を食べて銭湯に身を沈めて、終電少し前で東京へ戻ろうと思っていた。

 

ご飯屋さんを出ると、外は結構な雷雨だった。雨予報なんて聞いていなかったので、折りたたみ傘でしのぎ、まあ湯に浸かっている間に止むだろう……と思っていた。

ところが銭湯を出てみると、普通に雷が一分間に8発くらい落ちている。夜空全体が、寿命間際の蛍光灯みたいな光り方をしていて、光るたびに山の稜線なのか雲の輪郭なのかわからない影が見えた。

 

最寄りの南伊東駅から伊豆急線に乗り、伊東駅でJR伊東線に乗り換える。ところが、伊東駅の入線直前に「伊東線が一時的に運転を見合わせている」という、不穏なアナウンスが入る。

え?と思いつつ、滑り込んだホームの反対側に停まっていた伊東線の電車に乗り換えるも、確かに待てど暮らせど電車は動かない。

結局、伊東線は1時間後に運転を再開して、割と終電ギリギリの時刻に熱海駅まで移動できた。熱海駅に着いたのが、22時15分くらい。

 

静かに過ぎた判断の分かれ目:新幹線という選択

まあ伊東線が動いているのだから、その先も大丈夫だろう……と高を括っていた私。熱海駅入線直前に「東海道線*1がまだ運転を見合わせている」というアナウンスを耳にしたが、あまり深く考えず、熱海駅で東海道線に乗り換えた。発車表示では20時台のままになっていた小金井行。

 

このとき、新幹線は一応動いており、在来線は上り下りともに完全にフリーズしていた。新幹線こだま号の上り最終が22時41分発、下り最終は23時32分*2。新幹線に乗ってもいいのか、と思ったときには22時38分、東京方面の新幹線を捕まえるには間に合わない。下りなら間に合ったかもしれないが、このときの私の頭には「静岡方面へ引き返す」という選択肢がなかったし、地元へ引き返してもどこかで泊まる準備を持っていなかった。

 

運転再開が23時半と知らされ、この時点で東海道線から先の終電に間に合わないことがほぼ確定。じたばたしても仕方がないので、とりあえず停車中の列車でおとなしく運転再開を待っていた。

 

絶望の宣告、一瞬の置き引き:運転再開時刻の繰り下げ

もはや列車内にも諦めムードが漂っている。恐らく21時くらいから電車が動いていないので、列車内は老若男女、日本人も外国人もいる。

東海道線の下りホームを見ると、こちらはそもそも列車が在線していないので、みんなベンチや地面に腰掛けている。一番端っこの伊東線だけが平常運転だ。

 

ふと列車内のLED情報表示盤に目をやると、「運転再開は1時頃」と書いてあるではないか。さっきアナウンスで、23時半までには運転再開ができなさそうとは聞いたが、25時っておい、それは聞いてない。せめてアナウンスのひとつは入れてほしいぞ。

長期戦を覚悟し、一旦貴重品以外の手荷物は網棚の上へ押しやり、貴重品だけを持ち、ドア横の号車番号を念入りに確認してから列車を降りた。駅のトイレを使うついでに、飲み物を買いに行くためだった。

 

上りホームに戻ってくると、元いたはずの列車はもぬけの殻で、いつの間にか同じホームの反対側に入線していた列車に、乗客が全員移動しているではないか。慌てて自分が荷物を網棚に上げた号車に戻ったものの、手荷物の一切がきれいに無くなっている。やられた、一瞬の不意を突かれた、と思った。

 

あーやばい、やばいという気持ちのままホームに降り立つと、私が列車を降りるまで近くの座席に座っていた親子が私の姿を見つけて、声をかけてくれた。上りの乗客が全員誘導されて乗り換えていること、私の手荷物は駅員の手によって忘れ物として持っていかれていることを、私に教えてくれた。母親らしき人が指差す先をよーーーく凝視すると、ホームのはるか先を歩く駅員の姿と、その手に私の荷物っぽいものを持っているのを、捉えることができた。

 

我が息子を連れているにもかかわらず、周囲の状況を注視していたこの親子連れに、簡単にお礼を述べ、ガンダで駅員のもとへ駆けつけ、手荷物を取り戻す。確かに私の手荷物だった。リュックもボストンバッグも置いているのだから、忘れ物であるわけがないのは一目瞭然なのだが、そんなことを悠長に判断していられるほど、ゆとりがあるようにも思えない。

 

人はそれを「最終電車」とは呼ばない:熱海駅発車

24時58分、改めて乗り込んだ普通列車の品川行は、熱海駅のホームを、ゆっくりと滑り出していった。

自動アナウンスのあと、「大変長らくお待たせをいたしました」と、車掌のアナウンスが続く。「この列車は熱海駅を3時間57分遅れて発車しております、東海道線上り方面の最終電車でございます」……

 

…………3時間57分遅れ!もう所定時間なんかあってないようなもの、そもそも「最終電車」という概念には程遠く、どちらかというと「救済電車」だろう。あるいは「明かりの消えない夜行列車」だろうか。

 

先ほど駅のホームをガンダしたこともあり、私が乗り込んでいるのは15両編成の14号車。東京側の2両目で、ソロのおじさん、若いカップル、家族連れ、訪日客等々、混んではいないものの、決してまばらとは言えない数の旅客を乗せている。

不通区間を最初に走る列車だったこともあり、小田原まで50分程度を要するノロノロ速度で、列車は夜の相模湾沿いを走っていく。

 

ちなみにこのときの私はほかにも不運を被っており、普段は持ち歩いているはずのモバイルバッテリーをなくし、スマホのバッテリーも残量が数%だった。地元滞在は一日限りを予定していたので、作業時間が取れるはずもないと思って、割り切ってノートPCも書類も東京の自宅に置いてきてしまっていた。持ち合わせていたのは、たまたま先ほどの書店で買っていた本が1冊と、そのときに偶然いただいたZINEがこれも1冊。

 

日頃、移動時間は耳をradikoのタイムフリーに、目を駅メモに向けているのだが、これらはなにもできない。せっかく夜行列車になったのだから、オードリーのオールナイトニッポンをリアタイしたかったが、それも叶わない。代償に贅沢な読書時間を得たと思い、300ページあるその本を読むことにした。中央線沿線に住むサブカル女子がTinderにしたためた半年ちょいの日記をバインドしたとは思えない密度ではあったが、結局この列車を降りるまでにその3分の2を読んでしまった。

 

異常列車の車窓から:神奈川県内

列車は最初の停車駅、湯河原駅のホームに滑り込んで………………え!!お客さん結構いるぞ???

しかも熱海駅で停車中の列車に着座できていた我々とは違い、湯河原駅のお客さんはこの数時間、ほとんど立ちっぱなしだったらしい。大変だ。

 

湯河原駅でもまあまあの旅客を乗せた列車。ふと右側の車窓が明るくなる。対向列車だ。熱海駅でJR東日本アプリを確認したときは、小田原駅を先頭に普通列車が藤沢くらいまで大渋滞していた。そのうちの何本かは、熱海駅まで走るらしい。お互いにノロノロ運転なので行き違いにもそれなりの時間がかかり、その車内をざっと見ることができた。上り列車に比べるともうちょい空いてはいるけれど、確かに乗客の姿が見える。ゲリラ豪雨のせいで、とんでもない人数の夜と翌朝が台無しになったのだな、と思った。

 

真鶴駅に滑り込む…………あれ、湯河原より乗客が多いのでは??という人数をさらに積み込んで発車する。ちょうど貴船まつりの日だったらしい。

 

根府川駅でも多少の旅客を乗せ、早川駅にも停車し、小田原へ向かう。右手を見ると、普段は一瞬見える程度の、有料道路の高架の街灯と、緑色の看板が、煌々と見える。緑色の看板には、懐かしい公団ゴシックで「西湘バイパス」「真鶴道路」と書いてあった。はじめてちゃんと読めたと思う。

駅メモをプレイしていなかった分、車窓風景は結構見ていたほうだったはずだが、特徴的な車窓風景は、小田原手前のこの風景と、戸塚周辺の折り重なるように屹立するマンション群くらいだった。マンションは共用部分が灯されているのでそれでもわかりやすいが、工場は臨港部とは違い夜は真っ暗なので存在感がない。

 

がらんどうの小田原駅に到着。小田急線へ乗り換えるお客さんも多かっただろうが、小田急線も既に最終電車は見送った後である。

 

おさるのかごやのメロディーに送られ、小田原駅を後にする。不通区間は小田原駅までだったので、ここから先はいつも通りの速度だ。夜を駆け抜ける感があるかと思ったが、案外外は暗く、ただただちょっとだけ明るい住宅街の夜を走る電車であった。

鴨宮駅の停車中、珍しく下りホームに通過電車の警告が出ており、もしやと思い下りホームのほうを見ていると、サンライズ瀬戸・出雲のデカい車体が爆走していった。時刻は26時前。所定なら24時に静岡駅なので、ざっとこちらも3時間半は遅れていることになる。出勤ラッシュ時間帯の大阪駅に突っ込んだりしたのだろうか。

 

二宮駅停車中に、下り国府津行最終と思しき列車とすれ違い。根府川~早川間で下り列車と2本すれ違っており、お客さんも1本目と同じくらいいた。

 

一方でこちらの上り列車は、途中で降りるお客さんの数はそう多くなく、途中でソロおじを茅ヶ崎で見送った以外は、ほとんどの旅客が品川まで送られたと思われる。

 

小田原駅を出てからは非常に快調で、平塚、茅ケ崎、辻堂と過ぎ、気がついたらもう藤沢駅だった。このあたりの駅の発車メロディーは一生変えないでおいてほしい。

 

普段は人と列車でごった返している大船駅も横浜駅もがらんどうで、横浜駅に至っては京急線のホームまで見渡せるくらい誰もいなかった。

 

下車後に待っていた悲劇

川崎駅で列車を降りる。こんな時間に列車を降りるのはなかなかに異常だ。左右をみると、結構な数のお客さんが降りていた。南武線に乗り換える人も多いと思うが、当然ながら終電は終わっている。それどころか、発車表示にはもう翌朝の列車が掲出されている始末だ。

私の乗り換える先の電車もない。タクシーチケットを奪取するべく有人改札へ向かう。「乗り換え先の電車に乗り換えられない」旨を告げると、「Suicaでご乗車ですか」「定期券はお持ちですか」と問われた。嫌な予感がした。これは振替乗車と全く同様の取り扱いである。最終電車が大幅に遅れると、標準的な振替乗車とは異なり、目的地までたどりつけない必然性の高さと、極めて避けがたい状況の特殊さもあって、普通にSuicaで乗車してもタクシー救済があると思っていたが、結論は「切符で乗車していなければ、タクシー救済の適用外」とのこと。悲しいかな、私はSuicaで乗車していた。

 

なお、私が乗車した南伊東駅は、19時以降は無人駅となり、乗車駅証明書を取って乗車する必要がある。「切符で乗車する必要がある」というのはつまり、乗車する前から「この区間で乗車しますと契約を結んでいる」ことが前提であること、Suicaはあくまでプリペイドカードであり、そういった契約的な意味がないことを意味しているのと同値で、乗車駅証明書は切符が購入できなかった妥当性を補うものだと思うが、当然このままでは降りることができないので、どこかの有人駅で精算してもらう必要がある。ちょっと考えればすぐわかることだが、ICカードのタッチと乗車駅証明書のピックは、形式的にはなにも変わらない。この運用で誰が嬉しいんだ???という気持ちになったが、ゴネる体力も残っておらず、あぁそうですかとだけ言って有人改札を出た。当然、行く当てもない。

 

有人改札の目の前にはベンチがあり、私と同様にタクシー救済が得られなかった人が、何人かここで睡眠を摂っていた。賢いと思いつつ、私はどこでも寝られる身体をしていないので、まずはモバイルバッテリーを新たにコンビニで購入し、始発電車までやり過ごせる場所を探した。

自腹タクシーは、金額がものすごく高くつくこともあり、散々迷ってやめた。

途中で謎タイミング飯を食らい、始発電車で自宅へ帰ってきた。鉄道事業者も大変なのだから……とはよく聞く言説だが、いくらなんでも人間らしからぬ対応だったと思う。同じように路頭に迷った人は少なくないのではないか。

 

結論

比較的長距離の移動を夜にする際は、Suicaなどは使わず、かならず切符を買おう。Suicaでの乗車だと、代行輸送依頼書が発行されなくなる。

*1:熱海~小田原間。

*2:三島止、この日はダイヤが正常であれば三島で在来線の静岡行最終の快速電車に接続。実際に運行できたかはわからない。

国勢調査の調査員をやってみた話(令和7年度)

今年の5月頃だったか、道端の掲示板で、こんなビラを見つけるなどした。

ほえーと思って帰宅後、しっかり調べてみると、

  • 任期付・非常勤の国家公務員として、総務大臣から任命されること
  • どの自治体でも募集していること
  • 1調査区あたり平均4万円程度の報酬が出ること*1

がわかった。なるほど?

 

これは、ほんの興味から国勢調査の調査員に応募したアラサーの経験談です。

 

 

その動機

私自身は、国勢調査の結果はもちろんのこと、様々な統計データを仕事や研究で「利用する」側で、データを「収集する」側に立ったことはなかった。ほぼ興味本位だが、良い経験になるかも……と思った。

ちょうど仕事を辞めて副業の制約もないし、時間にもゆとりがある。さらに報酬までいただけるとはありがたい。あと、5年後に同じ機会を得られるとは限らない。

修論でフィールドワークをした経験を、そろそろ活かしたい……という欲求もあり、近隣自治体で調査員へ応募することにした。

 

応募して招集がかかるまで

だいたいの自治体では、ホームページに「国勢調査の調査員募集」の項目を設けていて、そこから調査員への応募フォームに飛べるようになっている。

必要事項を書き込んで送信。ちなみに、よほど小さな自治体でない限り、希望する学区や地区を書き込む欄がある。自分が住む自治体の、少し離れた地区の担当を希望することもできる。当たり前だが、調査区の指定までは出すことができない。

 

数日後、応募先の役所から電話があり、応募の意思に実体があることを確認された。

 

…………おわかりいただけただろうか。
インターネット上の応募フォームから、国勢調査の調査員を希望するような人間は、まことに稀有かつ奇特な存在であるようだ。

国勢調査の調査員のほとんどは、地元町内会から推薦された住民で構成されている。このことは、この記事の最後に触れようと思う。

 

外業務その1:説明会に行く

複数回にわたって、調査員業務の説明会が開催される。

役所の統計係から開催の連絡が来るため、参加する回と場所を連絡し、出向く。

持ち物は自分の証明写真。なるべく手荷物は無いほうが良い。

https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhzt2cchIIxm-Z5P_6NiMHSrSLjajeBoxuR6CzV5TQKxXkLALSr_Y1RG8c89ZSm_Tm-gg56-22NNZmpE_LxK6K82WJBRM2Txqabs0N2hENEzfj_3ViUTjgMcnamUzwd_Vxe5a00XCzEgYA/s800/job_kokuseichousa.png

説明会と名付けられながら、実際にはこの説明会で、調査に必要な用品のほぼ全てを支給される。

一調査区あたり、青いバッグが一袋。私は2調査区担当するので2袋。

イラストには軽々と描かれているが、この青バッグがアホほど重い。帰宅して体重計に載せたところ、一袋で5.4kg。夏休み前に計画的に私物を持ち帰らなかった、小学生の頃に戻った気分だった。

 

横を見ると、このアホ激重バッグを両手に、よろよろと階段を降りていくおばあちゃんの姿があった。涙なしには見られなかった。

 

説明会の会場によっては、自家用車での来場が禁じられている場合もあるが、うっかり徒歩や公共交通機関で来ようものなら悲惨だ。できるだけ自家用車で来ることを推奨したい。

また、激重バッグを運ぶ必要があるという観点からも、住まいや拠点から遠すぎる地区や自治体の調査員を引き受けることは、あまりおすすめできない。

 

バッグの中身は、配布資料がほとんど。他には、調査にかかる事務書類や、マニュアル*2が入っている。あとは、調査に必要なシャープペン*3、消しゴム、鉛筆*4、バインダー*5、防犯ベルなどの道具たちと、「調査メモ」という世帯と書面上でやり取りをする場合に使うメモ帳*6。配布資料以外は、業務完了時に返却する必要がある。

 

外作業その2:担当調査区の確認

説明会で配布される激重バッグには、担当する調査区の白地図が格納されている。これに、自分の手で必要事項を書き込んでいく。もちろん、自らの足で調査区を歩き回って。

 

関門となったのは、空き家の判断方法。戸建てであれば、設置されている電気メーターの順動作と逆動作が同時に点灯していれば判別がつく。
問題は集合住宅で、ただでさえ空室を判断するのが難しい上に、アットホームで空室情報が出ていても、ガスの元栓が締まっていても、何なら隣人が空室だと言っていても、人が住んでいることさえある。せいぜい、客付業者向けの外付け鍵がついていれば、99%空室……くらいしか手がかりがない。ここは割り切るしかない。

 

一調査区あたり1時間かからない程度で完了した。

 

内作業その1:調査書類の丁合

調査区のほとんどは、単位区という小地域を複数まとめて成立している。
担当調査区の確認で、単位区ごとの世帯数を見込むことができるため、単位区ごとに調査書類を仕込んでいく。配布前の早いうちに終わらせておいたほうが良い。

地味に時間がかかる上に、7種類くらいの書類を一度に広げても大丈夫なくらいの広さがある、机もしくは床が必要になる。ワンルームの住人だとちょっと厳しい。

 

単位区をまたいで融通の利く書類と、融通が利かない書類がある。よく注意すべし。

 

内作業その1.5:足りない書類がある

さて、調査書類を仕込んでいると、どう考えても部数の足りない書類がいくつもある。こうなると、役所の統計係に「どの単位区で何が何部足りないか」を事前に連絡し、取りに行く必要がある。役所が遠い場合は結構な手間になるため、丁合は早いうちに済ませておいたほうが良い。

恐らく総務省統計局のほうで、事前に単位区ごとに世帯数を見込み、その数のギリギリで書類を入れていると思うのだが、手間が発生するくらいなら最初から多めに入れておいてほしいと思った。

 

書類や調査風景はほとんどが機密情報なので、写真等は一切撮影していない。文字ばかりの記事をもう少しご容赦いただきたい。

 

外作業その3:調査書類の配布

一番大事なパート。調査資料の配布期間が、9月下旬で2週間弱指定される。この期間に、事前に丁合した調査書類を、世帯番号の間違いがないよう配布していく。

 

一軒一軒インターホンを押していくのだが、変な営業とは違ってこちらは親方日の丸(一応)なので、その点は安心感がある。

このときの住民の方への接遇で、心ない言葉をかける住民の方がいるという報道もあるが、私の場合は

  • 「お疲れ様です~」「あなたどちらの方?」などの労いの言葉をかけていただく(恐らく調査員経験のある世帯の方)
  • 本当に普通に受け取っていただく(イメージは宅配便の受け取り)
  • やや不審がられる(そもそも国勢調査の存在を知らない人も少なくない)
  • 留守(ポスト投函でOK)

のいずれかであり、「こちら統計法第5条第2項に基づく調査でして、ご回答いただけない場合は~~~」というレクチャーを要したり、ありがたいお言葉を頂戴したりするような場面には遭遇しなかった。

むしろ、こちらに気を遣っていただく場面は何度か遭遇し、自らの日頃の所作を省みそうになることもあった(実際にはそんな余裕はないが、ふと折に触れて振り返ったりはしている)。

 

一"単位区"あたり1時間、つまり一調査区あたり2~3時間を要した。2調査区を担当していれば、およそ半日にも及ぶ。

重たいバッグで手一杯だが、残暑の中なので、こまめな水分補給と日陰での休憩を意識した。家や拠点が近ければ、単位区ごと時間を空けて配布するのが得策。

 

なお、このときに「応接できたか/留守だったか」を、世帯ごとメモに残しておくと、後々大いに役立つ。

 

内作業その2:白地図の更新

調査資料を配布して回っていると、世帯があると思っていた場所に世帯がなかったり、逆に世帯がないと思っていた場所に世帯があったりする。これらも白地図に書き加えていく。修正方法は簡易版マニュアルに書いてある。

 

外作業その4:「調査への回答はお済みですか?」ビラの配布

一連の業務の中で、最も必要性を感じなかった工程。こちらも期間が2週間弱で指定されている。期間内に全世帯に対し、青いペライチのビラを配布して回る。

一調査区あたり、1時間もかからない。テレワーク後の運動としてはちょうど良かった。

 

内作業その3:未回答世帯の確認

10月の中~下旬になると、調査員のもとに「担当調査区内で回答済みの世帯番号」が毎日通知されるようになる*7。この情報をもとに、未回答世帯を洗い出し、必要に応じて未回答世帯用に調査票を再度丁合し、往訪の準備をする。これが二番目に大事かつ、重量のあったパートだったと思う。

 

なお、未回答世帯に外国人世帯が見込まれる場合、役所が多言語対応版の回答票を保有しているため、どの言語の調査票が必要かを事前に把握し、役所に連絡できれば、多言語対応版の回答票で対応することもできる。このことは簡易版マニュアルに記載がないため、意外に知られていない。また、回答票が用意されている言語も「外国人向けリーフレット」に記載のある6言語以上にバリエーションがあるため、意外な言語が来ても対応できるようになっている。

 

外作業その5:回答票の催促と聞き取り調査

10月中~下旬で時期が指定されている。本当は何度か回答票を催促した上で、聞き取り調査に踏み切ることが望ましいのだが、担当調査区からは距離があったため、私は一度に実施した。

洗い出してある世帯番号に基づいて、未回答世帯を再度往訪する。また、調査資料配布時に「取りに来てください~」と頼まれた世帯があった場合は、その回答票も回収しに伺う*8。

再度の往訪の結果、回答票の回収見込みが薄い場合は、調査員自身の聞き取り調査で必要最低限の項目のみ補うのだが、実態としては賃貸の集合住宅での聞き取りはほぼ不可能である。戸建てであれば近隣世帯、あるいは町内会の会長さんや区長さんに聞くと、必要最低限の事項は聞き取ることができる。フィールドワーク力があればこのあたりで活きてくるし、地元住民であればご近所情報として仕入れることができる。

 

所要時間は場合によって異なるが、私の場合は2時間かからない程度だった。
散々歩き回った担当調査区も、これが最後の往訪となる。

 

内作業その4:白地図と事務書類の更新

調査員としての任期も終わりが近い10月下旬。調査区の白地図は更新しておく。事務書類に必要事項を記入し、渡されたときは激重だったあの青バッグに、調査区ごと分けて格納する。

意外と整理すべき事項があり、集中しても2時間程度を要した記憶がある。

 

外作業その6:調査員用バッグと調査用具一式の返却

任期満了間際(多少過ぎても問題はない)に、役所へ借りていた一式と書類を納めに行く。必要書類が揃っており、無事一式を返却できれば、業務は完了。おつかれさまでした!

 

報酬に見合っていたか?

学生のバイトとして見るのであれば、結構実入りがいいと思う。フルタイムワーカーを経験していると、ちょっと物足りないように感じた。

自宅での内職と、担当調査区内への往訪の両方に時間が必要になるので、フルタイムワーカーとは相性の悪い業務だと思う。かといって、大量の調査書類を捌ける事務能力と、10kgバッグを持てる体力の両方を兼ね備えた暇人など、いるはずもなく…………。

 

調査員業務をやっていて腹が立ったこと

「国勢調査をかたる、全く関係のない民間事業者の怪しいアンケートが同時期に出回っていたこと」には腹が立った。こちらが本物の国勢調査だということを説明しようにも、調査員証と青色バッグ以外に、それを説明できるものがない。本物の国勢調査の回答率に影響を及ぼすような、自分勝手な個人情報の聞き出しは、本当にやめてほしい。これは調査結果を使う側としてのコメントでもある。

 

次回も調査員業務を請けたいか?

調べてみたら、今年度の国勢調査の調査員体験談が、既に結構ネットに出ていた。で、なぜかこの項目が必ず付記されていたので、私も意見出しのつもりで書いてみる。

 

正直なところ、「そのときのライフスタイルによる」の一言に尽きる。フルタイムワーカーで、就業先の就業規則で副業がNGであれば不可能だし、規則上はOKでも生活に業務を請けるだけの余裕がなければ難しいと思う。

大局的な話をするならば、5年後までに日本の20代~40代が、もう少しフレキシブルにできる割合が高くなっていれば、調査員業務を請けられる人も増えるように思う。

 

担当調査区に集合住宅がどれだけあるかは気にならないが、中山間地域で車が必要だったり、あるいは平地でもアクセスが悪かったりすると、そのときに車を運転できるかどうかに大きく左右されると思う。

 

調査員のなり手について

国勢調査の調査員のほとんどは、地元町内会から推薦された住民で構成されている(再掲)。むしろ、地域外の人間が調査員業務に従事することは、現行の制度ではほとんど想定されていないものと見受けられる。
それはそうだ。考えてみてほしい。どこの馬の骨かも知らない個人に、わずかであっても世帯の個人情報を触れさせるのは、誰であっても警戒してしまう。地元の方であれば、少しは信頼しても良いかな……と感じることは、不自然なことではない。

 

しかしながら、ここまで書き綴ったとおり、調査員業務は相応の負担がかかる。
少子高齢化の波と、サラリーマン&核家族世帯の増加というダブルパンチで、地元町内会から推薦できる人が年々減っている。調査に対する世間の無関心・無理解も拍車をかけている。これは一時期話題になったとおり。

 

地元住民の馬力と信頼関係頼みで、どうにか回っている(回っていない?)国勢調査。どうして地元住民の信頼関係に依らざるを得ないのか。

試しに、e-statから国勢調査の小地域集計をダウンロードしてみてほしい(どの集計表でもよい)。「不詳」とされた数字は、調査票が回収できず、聞き取り調査でその情報を補った世帯の数が多くを占める。

 

国勢調査の聞き取り率は年々上がっている。先述の内容がほぼ全てだが、調査票の回収率を担保するにも、聞き取り調査を行うにも、地元住民でないと情報を探ることが難しいのだ。

こんなにも再現性のない調査だが、日本国内に住まう人への悉皆調査は、現状ではその信頼性を「地元」の力で支えており、その調査結果がこの国のこれからを決める知見の、かなり大事な部分を占めている。

 

誰であれば調査員業務をおすすめできるか

あくまで私見だが、「まちづくり」に興味のある学生は、うまく機会に恵まれたならぜひ経験してほしいと思う。地域というものが、どういった人々で、あるいはどういった内実で構成されているのか、その実態を肌で知ることができるからだ。地域には、意外といろいろな方が住んでいて、一軒ずつ観察できる機会はそんなに多くない。調査で知り得た情報は口外厳禁だからなおのこと。
もちろん、個人情報目当てで応募しようものなら、引き換えに自らの未来を本当に台無しにするので、その点については倫理観を持って応募されたい。

 

 

註:本記事は、担当した調査区の世帯数等、秘匿すべき箇所はマスキングを施し、必要な箇所には改変を加えています。

*1:実際の報酬額は、担当する調査区の数と、調査区内の世帯数で変動する。

*2:うっすい簡易版と、電話帳くらいの厚さの2冊あるが、後者は可搬性が著しく低いため、発動の機会は一度もなかった。

*3:芯がめっちゃ折れやすい。せめて市販の100円シャーペンくらいの品質のものが良かった。

*4:「うちには筆記用具もスマホもなくて回答できないんです~~」とのたまう人にお渡しする用。

*5:調査員ひとりに1枚しか支給されない上に、二つ折りタイプではないので、個人情報を隠すには機能的な不足がある。調査区の間で書類がぐちゃぐちゃにならないよう、せめて調査区あたり1枚は支給してほしかった。

*6:マニュアルには書いてあるくせに、どれが調査メモなのかはわかりづらい。バッグの底で腐りかけていた。

*7:ネット回答は回答状況がすぐ反映されるため、調査員からしても結構ありがたいのだ。

*8:心無い人間が身分を偽装して回収する場合もあるため、郵送へ誘導することが望ましい。

ファクハク余韻③ナガハシ印刷(株)

前回の記事はこちら。

 

 

印刷工場について

東京の鉄砲洲や小石川、早稲田鶴巻町の周辺は、古くから小さな印刷工場がひしめいているのは、既に周知のとおりです。大きな印刷工場の周辺だったり、水を得やすい立地だったり……ザ・東京な地理事情がうかがえます。


では、静岡の場合はどうでしょう。ちゃんと調べていないので何とも言い難いものの、「一定の集積を帯びながら、市街地郊外の複数箇所に分散していた」というのが、今のところの私の予想です。

床面積等の規模にもよりますが、印刷工場が立地するには、最低でも都市計画の用途地域で「住居専用地域」は避ける必要があるので、特に居住用途に供する土地が少ない静岡市だと、機械更新に伴う移転ともなると場所が絞られます。

 

今後の研究課題ですね。公私ともに印刷会社さんにはお世話になっているし。

 

印刷機との初対面

今回訪ねたナガハシ印刷さんも、上に考察した通り戦後から静岡の産業を支えた印刷屋さんです。最初は新川越町*1で、その後は中島への移転を経て、平成初頭に現在の安倍川駅東側に拠点を構えます。

郵便番号が5ケタ、市外局番が4ケタ。平成初期を感じます

 

でっかい印刷機。我々が輪転機と呼んでいるものの、もっと格が上のもの。

製版の上にインクを落としたものは、一度銅板の上に移され……

 

確かこのあたりで紙へ複写されると教えてくれたはず。版から直接紙へは写しません。

 

最初のうちはまるで一つひとつの動作をぬるぬると確認するがごとく動く複写機も、すぐにスピードアップ。目にも止まらぬ速さで紙が送られていきます。

 

最初に出てきた印刷物が左側。微妙なズレは、技工さんの手で調整されていきます。

 

裁ち落とし線を見ると、なるほどシアンが大きくずれている。

 

ちなみにここまでが多色印刷機の様子。もうひとつ、二色印刷機があります。

機械の見た目はさほど変わりませんが、大きく異なるのがこの工程。

…………?

 

…………!!!!

 

二色印刷用のインクは、なんと「手練り」です。

シャカシャカシャカシャカ…………

 

ほら、前回のインクとほぼ同じ色になりました。すごいな。
そんなわけで、二色印刷機から出てきたインクは、ルーペで見てもCMYKのドットが見えないのです。そりゃコストも全然違うなぁ。

 

その二色印刷機を使って作られている大ヒット商品が……

こちら。いいかげんノートです。

 

「当たり前」の裏側へのいざない

印刷の出力サイズのひとつに「菊版」というものがあります。
その由来がまたおもしろい。新聞紙サイズを指す言葉ですが、新聞→聞く→菊……という説があるのだとか*2。

 

丁寧に印刷された印刷物は、それこそほぼ毎日手にするもの。でも、それらがどうやって現物になるかは、私はあまり想像したことがありませんでした。もっぱら、ローカルメディアとかzineとか、内容のほうには興味が向きやすいけど。

 

木製家具・水産物・農産物・印刷物に限らず、ファクハクを通して6件の工場見学を体験させていただきました。

実際に今この瞬間も働いている人がいる工場。私が修論で取り扱った分野も同じですが、部外者が「おもしろがって」大丈夫なものだろうか……という気持ちは、割と今も変わらずに持っています。

でも、自ら知っている世界を拡張していくことで、物の見方はずいぶん変わるんだな、ということを再認識したファクハクでした。なにより面白いし。
もちろん、分野ごとにキュレーションできる人の存在は必要だと思いますが、「まずは見て感じて、それから考えよう」ということも、大事なのかもしれません。

 

このまちのまだ知らない世界を見せてくれたファクハク。来年もあるといいな。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

*1:ちなみに新川越町という町丁目は、過去一度も静岡市史に登場していません。新通川越町の間違いでしょうか?現在の新通二丁目・川越町にあたります。

*2:一般的には、舶来品の原紙に描かれていたダリアの花が、菊の花を想起させたことが由来ともいわれています。

ファクハク余韻②伊豆川飼料(株) ならびに #マグ活

前回の記事はこちら。

 

……おかしい。ミラーレスを持って行ったはずなのに、あんまり写真が残っていない。だいぶ話に聞き入っていたのでしょう。

 

そのツナ缶にはワケがある

最近、このツナ缶をよく見かけませんか?特に静岡在住の方。

 

淡い水色の「とろつな」は、キハダマグロの「トロ」の部位を使った、ブロック状のツナ缶。
対してクリーム色の「しろつな」は、ビンチョウマグロ(ビンナガマグロ)を使った、フレーク状のツナ缶。一般的にツナ缶といえば「しろつな」の姿が近いですね。

 

違いをわかりたいあなたはこちらもどうぞ。


仕掛人の名前は伊豆川飼料さん。飼料と肥料の製造を手掛けています。
え?食品産業ではないのに缶詰製造とは。いかに…………?

 

どうしてここで飼料・肥料を?

その原料がこちら。

これ、なんだかわかりますか?

正解は魚粉です。中に混ざっている白い物体は砕かれた骨の部分。

 

 

これがその魚粉の原料となる魚の残渣。パッと見は、骨とどんぐりと落ち葉……
要は大型魚の不可食部分の寄せ集めなわけですが、カラッカラに乾いているので、もとの魚の姿はイメージしづらいような…………?

 

ここまで書けば、見出しの意味がわかるかもしれません。
清水港や焼津漁港で水揚げが盛んな、冷凍のマグロやカツオの残渣を使って、魚肥をつくっているのが、伊豆川飼料さんの事業の主軸です。

とはいえ、今はマグロやカツオにとどまらず、有機の飼料や肥料も取り扱っています。

袋の中に、原料となる大型魚の残渣たちが入っています

残渣にまぎれた異物たち。その多くは釣り針です。ここで丁寧に除去されます

 

客先ごとに「ちょうどいい」肥料を

製品の特性上、肥料のほうが小ロットになりがちです。
で、その小ロットの肥料は、使用する農家さんなどのオーダーに合わせて配合していくのですが…………なにをどれくらい混ぜているかはガチの極秘。伊豆川飼料さんの生命線でもあるので、写真はカットです。

肥料の袋を綴じるミシン(?)。小ロットなので、この規模の機械が活躍します

代表的な肥料の配合比率の指標が「チッソ・リン酸・カリ」。それぞれ役割があります。

  • チッソ:窒素(N)。クロロフィルの構造に含まれるため、光合成の能力に直結するほか、タンパク質のペプチド結合部分(アミノ酸のアミノ基部分)を構成したり、DNA・RNAの塩基部分に含まれたりと、与えたチッソはそのまま植物の根や茎・葉に取り込まれていく。連作障害の正体は、土壌のチッソ不足であることが多い。
  • リン酸:リン(R)を含む、有機化学上で単位物質ともいえる有機物。ヌクレオチドを構成する上で欠かせない。ヌクレオチドにはDNA・RNAだけでなく、エネルギー伝達物質であるATP・ADPも含まれる。実肥とも呼ばれ、結実を促進する作用もある。
  • カリ:カリウム(K)。植物の部位を構成するのではなく、いわゆる「補酵素」のはたらき。人間も「栄養摂りなさい」と言われるが、植物も同じ。

 

土壌や作物によって補うべき内容が変わるので、オーダーごとにここで配合していくのです。

 

そして #マグ活 へ……

全体を俯瞰すると、「静岡で水揚げされたマグロやカツオのうち、可食部は様々な人の手を通りながら食卓へ、不可食部は飼料や肥料へ形を変えることで、農地や牧場を豊かにしながら、食肉・鶏卵・牛乳や、みかん・お茶・野菜などに姿を変えて食卓へやってくる」という、つながりの中継地になっています。最近の言葉を使えばアップサイクルというもの。

 

が、しかし。国内における水産加工業、とりわけ静岡県内での缶詰製造が、今めちゃめちゃ窮地にあります。
魚価の高騰や生産コストの急騰により、生産加工拠点は海外への流出が止まらず、大型魚の残渣が国内で発生しない。これが、国内での飼料・肥料生産にも響いているのです。

 

伊豆川飼料さんに限らず、国内(ほとんどが静岡県内ですが)の缶詰製造業者の足場が崩れつつあるだけでなく、水産加工業もその影響を受けているはずです。

 

ではどうすればよいか。仕組みを維持することは、ひとりの力では限界があります。
でも、「国内でのマグロやカツオの水揚げ・加工を、"食べて応援"する」ことは、ひとりからでも始められます。

 

こうして、Twitter上の #マグ活 は始まったのです。

おかわりいただけただろうか…………。とろつな・しろつなは、「ツナ」がりを生み出すひとつの手がかりなのだ…………。

 

みなととはたけをひとツナぎ。清見潟のほとりからは以上です。

 

次の記事はこちら。

関西視察③宇治(建築学会・景観ルックイン)

前回までのあらすじ↓

本当は丹波篠山とか国立民族学博物館とか、あと上狛の茶問屋街にも足を運んだのだが、あまりにも日が経ちすぎ、感想を書こうにも鮮度が落ちている。せめてこの一連のメインディッシュのことくらいは書き残しておこうと思う。

 

ことはじめ

大学・大学院時代の専攻の先輩から、「日本建築学会 都市計画委員会 グローカル景観デザイン小委員会」というところが主催する「景観ルックイン」にお誘いいただいた。端的に言えば巡検とパネルディスカッションのセットだ。

今回で30回目を数えるものの、コロナ禍で3年間実地開催がなかったとのこと。
今回は「宇治茶の文化的景観」をテーマに据えての開催……ということで、建築学会には縁もゆかりもなかった私も参加することになった。茶流通と空間論を結びつけた議論なんて超レアなので、こういう機会は非常に嬉しかった。

 

まずは山本甚次郎邸へ。製茶工場の見学

9月11日(月)の13時。JR宇治駅前に集合。参加者およそ46人のうち、建築学徒の皆さんが26人も。若い~~~~~、!!って思いながら、3班にわかれたうちの一班に混ざった。

 

まず訪ねたのは、JR宇治駅にほど近い宇治橋通りにある「山本甚次郎邸の製茶工場」。
街中にあるものの、立ち位置は「茶農家さん」である。

オモテは小売りができる店間になっており、その裏に製茶工場がある。よく旧市街で見かける、表は店間や事務所で裏や二階が工房、という造りの例に漏れない。静岡の街中にある茶問屋さんも、大概二階に仕上工場を抱えている。

 

製茶工場。煉瓦造の製茶機械が非常に印象に残る……と思いきや、こいつは乾燥炉。
機械の端から撮影しており、駆体の全長は真ん中で光っている蛍光灯のあたりまでしかない。大正末期の発明品なので、当然電力駆動ではない。

乾燥炉の手前には、冷却用の散茶機がある。レーンの下側から風を送り込み、蒸した茶葉を高く飛ばすことで、冷却工程と重なった茶葉を引き剝がす工程を兼ねている。

この手前には蒸熱用の機械もあったはずなのだが、写真には残っていなかった。2階にあったような気もするが、いずれにしても蒸熱用の設備はそれほど大きくないのだと思う。

 

そう。煎茶の製茶工程に比べると、物理的に占有する面積がはるかに少ない。
煎茶の場合、最も規模の小さい35kラインは見たことがないのだが、次点である60kラインは最低でもここの3倍近くの面積を取らないと、設備が入りきらなかった記憶がある。ひと昔前の茶部屋でさえも、こんなにコンパクトではなかったはずだ。

専有面積の差分のほとんどが、碾茶の製茶工程には存在しない部分の機械である。葉打ちは散茶に代えられており、揉みは工程そのものが存在しない。

一度解体を経験したのだろうか、部材にはメモ書きが見られる

もちろん、近代化の進んだ機械ならもう少し違うのだろうが、同じ日本茶でもここまで違うか……という感想を持った。そりゃあ静岡の煎茶産地で抹茶をやろうというのは難しいわけだ。材料もそうだが、システムが全然違う。

 

山本甚次郎オリジナルの抹茶ジェラート。牛乳の味とよくマッチしていて美味。

 

もう100年近くを生きているこの機械。壊れた部品は山本さんご自身で見繕っているらしい。機械全体の仕組みを熟知しているからこそ成せる技だが、なかなか手間がかかっていそう。

 

ちなみに、店間で売る用の抹茶をつくるために、2台だけだが石臼もある。

 

堀井七茗園の抹茶工場へ

次に訪ねた堀井七茗園さん。ここはいわゆる「茶商さん」だ。

宇治における茶商さんの役目で特徴的なのは、合組後に「石臼挽き」をするところ。煎茶でも同様に茶葉の形状を整える役割はあるものの、石臼という道具を用いて、ここまで大きく茶葉の形状を変えるとなると、ひとつの役割として合組とは独立しているように見える。

 

石臼のミクロ接写。荒茶を真ん中に流し込むので、中心の溝は深めに切られている。外縁に向かうに従って、その溝は浅くなっていく。

 

専務さん(?)に尋ねたところ、宇治の茶問屋は江戸期から抹茶を取り扱う比重が大きい一方で、上狛は静岡と同様に、明治期に日本茶の輸出が伸びたときに隆興したところで、取り扱うのはもっぱら煎茶だという。
どうして上狛だったのかというと、茶産地に近接していながら、木津川の川運で大阪まで運び出すことが容易な場所だったから……らしい。

 

堀井七茗園・店舗へ

六代目園主の堀井社長から、様々なお話を伺うことができた。

  • 宇治から入った山間地の抹茶は「松のみどり」、宇治川が形成した扇状地で栽培された抹茶は「竹のみどり」と呼ばれる。
  • 昔は「ほいろ師さん」や「お茶よりさん」などが、日本酒の杜氏さんの如く出稼ぎに来ていた。記憶の中では天理から来ている人を覚えている。お茶よりさんは茶摘み要員でもあった。
  • 自園は店舗の近く。他にも特定の農家さんと半世紀も直接契約している。

「出稼ぎの受け皿」という視点は、静岡の茶業ではあまり見られなかった気がする。あくまで予想だが、宇治や山城に比べて静岡は茶業が面的に広く営まれていたため、茶業地域の外縁を除けば、だいたいどの地域も繁忙期が重なること、静岡では生産よりも流通で出稼ぎ要員が活躍していたこと*1が、出稼ぎの規模感に違いをもたらしていたのではないか。加えて、農山村地域同士の往来という観点だと、畿内(特に京阪神付近)よりも静岡県内のほうが難易度が高い気がする。

 

寺川茶園へ

中宇治の街中には、今でも茶園が残されている。そのうちの一ヶ所に足を運ぶことができた。

地図の中心がその茶園。航空写真にしてちょっと引いてみると、ほかにも茶園があるのがよくわかる。

そして、茶園には寒冷紗をかけるためのポールが立っていることも、航空写真からよくわかる。

実際はこんな感じ。碾茶は摘採の2週間ほど前になると、寒冷紗をかけて日光を遮る。この点も一般的な煎茶とは異なる。

 

管理している農家さんのマメさがうかがえる。敷き草は遠いと琵琶湖あたりからも取ってくることがあるとか。このあたりには茅場がないのだろうか。

それと、住宅街に隣接する茶園は、品質に影響が出るとか、逆に居住環境側に影響が出るとか、そういったことはクリアできているのだろうか。生産緑地の持続性という観点からも気になる。

 

パネルディスカッション

「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」へ移動してパネルディスカッション。雑感だけ書き留めておくが、すでに「宇治茶の文化的景観」としてユネスコの世界文化遺産への登録に向けて、府庁や委員会が諸々の調整を済ませて手を挙げている状態なので、本当に何の参考にもできない雑感である。

 

  • 茶業振興に向けて、景観という側面の価値を官民ともに認知していることは、とても素晴らしいと思う。このような取り組みは他には見られない。
  • しかし、茶農家さんと茶商さん(あるいはそれよりも下流)をつなぐシステムは、小規模な事業体が主軸となる点のみを共通点としながら、日本国内に数多ある産地ごとに大きく異なるものであり、一括りに宇治茶が日本茶を代表できる理由が見当たらない。
  • 歴史的側面を考慮すれば、明治期に入るまでは宇治が日本茶の中心地であったことは事実だが、その後の国内各地における日本茶の繁栄を鑑みれば、歴史的側面にどれほどの重要性があるかについて議論が不足しているように思われる。
  • また、多くの食品流通の例に漏れず、生産者と問屋の力関係が歪な可能性も窺えるが、言及がない。現状の茶流通システムは手放しに評価できるものなのか、その実態について把握が必要だと考えられる。

 

繰り返しにはなるが、空間論から食品流通を取り扱う議論は非常に貴重で、様々な視点からの議論を混ぜながら、健全な継承のためにうまく役立てていきたいところだと、私は強く思った。

 

非常に刺激的な回へ、非会員にも関わらず参加をご快諾いただいた小委員会の皆様に、末筆ながら御礼申し上げます。

*1:いわゆる才取さんのこと。

ファクハク余韻①(株)岳南木工商会

工業都市…………というよりも、支店都市の性格が強い、愛すべき我らが静岡市。

 

初めて、オープンファクトリーイベントが開催されることになった。その名も「ファクハク」。

最初知ったときも「……?」みたいな感覚でいたけれど、やっぱり気になるのでボランティアスタッフに手を挙げた。

 

この街で、オープンファクトリーイベント、やるんですか…………?

 

7本/日しかないバス(土日祝運休)に揺られて

千代慈悲尾線に乗って、静岡駅から20分弱。バスを降りて10分も歩かないところに、岳南木工商会さんの事務所と工場があります。

「岳南」を社名に冠していますが、ちゃんと静岡市内。岳南電車がメジャーになったので富士市周辺をイメージしますが、ちょっと前の世代だと静岡市でも「岳南」という名称を使ったりします*1。

 

生憎この日は朝から雨。真横を流れる日影沢川も濁っていました。

 

岳南木工商会さんは、木製救急箱で国内トップシェアを誇る木工製品メーカー。

四隅に縞々模様で表れる「コーナーロッキング(あられ組み)」が最大の特徴。よく記念品の枡にもあるものです。が、侮ることなかれ。

 

カタログのない木工屋さん

工場には様々な木材がストックされています。これは撮影OKだった一角の写真で、NGだった倉庫の中には、種類も産地も厚さも様々な木材が、本当に山のごとく積みあがっていました。

 

ここは単なる木工製品のメーカーではなく、企画者の依頼を受けて様々な製品を小ロットから形にする、オーダーメイド特化の木工製品メーカーです。

だから、カタログもなければ、在庫を抱えることもありません。
ただ、木材は依頼があってから製材を発注するのでは時間がかかってしまう。だから、このように様々な木材をストックしているのです。

 

ひとつとして同じ機械のない工場

年季の入った裁断機。なぜか「古い」という印象は感じません。

 

工場の中には様々な機械が配置されていますが、ひとつとして同じ機械は無いように見えます。大量生産をしないから……だけでなく、依頼に対して柔軟に対応できる体制の表れなのかな、と思いました。

工場の従業員の方々も、すべての機械を取り扱うことができるとのこと。個々人の得意不得意と照らしながら、製品ごとに担当を分けていきます。オーダーへの応え方は、完全に個々人に委ねられていますし、委ねても大丈夫なように工場ができています。

 

でも、刃がむき出し。電子回路の入った機械はひとつしかありません。フールプルーフは手元に委ねられています。常に細心の注意を払わねばいけない工場でもあります。

 

私たちがまだ知らなかったコーナーロッキングの世界

高く積みあがった、救急箱のたまごたち。コーナーロッキングは実に22段で組み合わせています。

企業秘密でここも撮影NGでしたが、ロッキングカッターも見させてもらいました。他社さんのホームページにも記載がありますが、一つひとつの段をくりぬく刃の調整が難しく、それだけで数日溶けることもしばしばあるのだそう。

 

だから、写真に映っている箱たちは、その手間をいっぱいに受けた箱たちなのです。ここから更にカンナ掛けの工程が待ち受けています。

円盤に付いた刃が回転して、木枠の天面と底面を揃えていきます。

木枠の幅は一定なので、まるで紙テープのようなおがくずが、機械にも床にもいっぱいに。単なるおがくずですが、ここまで積みあがってきた技術の片鱗が見えるような気がします。

 

適材適所

同じ樹種でも、産地によって特色が大きく変化します。
例えば上の画像。左側は確か吉野杉だったはず。右側はオクシズ材です。

 

素人目に見ても、木目の入り方が違う。やっぱりブランド材は相応の品質があるのです。

 

…………だからといって、ブランド材が常に優れているわけではありません。

木材も自然素材です。湿度の高いところでは水分を吸収し、乾燥したところでは水分が抜けます。
例えば、木造住宅の骨組みに使う木材。伐採してきたところと、住宅の骨組みとして使うところで環境が大きく異なると、思わぬゆがみ方をするのだそう。

だから、木材もできるだけ地産地消したほうが、製品や家屋として長く使い育てていくのに向いている、ということらしいです。

 

今なぜ「木工製品」なのか

この「救 急 箱」の文字と緑十字も、シルクスクリーンで描くオリジナルデザインです

ニトリやIKEAなど、安価な家具が出回るようになった昨今。そのほぼ全てが「フラッシュ板」と呼ばれる、中が空洞だけど木板に見える材料でできています。

 

大量生産・大量消費は、現代のニッポンが成熟社会である証左かもしれません。
しかし、「成熟した社会を〈つくる〉〈続ける〉」こととは同値なのでしょうか。

 

工場見学の最後に本田社長は、「今の日本には長く育てるという文化がない」と仰っていました。だから、長く育つもの=木製品に、幼いころから触れてほしい―――その思いに共感してくれる業者さんとの取引を、大切にされているのだそうです。

他にもいろいろなものを見させていただき、いろいろなお話を聞くことができ、実りの多い時間になったのですが、その全てを言葉にするのは難しい……と、久々に頭がパンクしそうになりました。

 

 

見学できる機会があれば、皆さんもぜひ足を運んでみてください。

 

次の記事はこちら。

 

*1:一番よく知られているのは、某校生徒の伝統チラ見せみたいな呼び方。

関西視察②舞鶴

前回までのあらすじ↓

 

第一夜は西舞鶴で過ごすことにした。

 

茶又旅館にて

列車の都合上、この日の宿泊は東舞鶴か西舞鶴の二択。本当は若狭湾のどこかの浜までバスで出て、民宿でゆっくりしたかったが、土日にひとりで訪ねたら迷惑かなーなどと思いつつ、結局は時間の都合で叶わなかった。もっと時間をかけて、車で来て楽しめたらよかったな、と思った。


ちなみにお財布が許さなかったが、ここの食事と宿泊はとても気になっていた。

 

まちなかの宿泊なら、真っ先に考えつくのがゲストハウス。しかし、どうにもピンとくるGHが見つからない。
そんなこんなでGoogleマップをズームして見ていたら、ふと一軒の旅館を見つけた。

茶又旅館。ブラウザで調べてみたところ、重文指定されている素泊まりの旅館なのだとか。これはスルーできないと思い、電話で予約。スムーズに予約が取れた。

 

宿泊の翌朝、宿の皆さんの許諾を得て、内部をいろいろ写真に撮らせていただいた。

主屋を正面から。淡い朱色の漆喰と木目が美しい

玄関。明かりが少ない分、一つひとつ目に入るものが際立つ

玄関の壁も朱色の漆喰が鮮やか。いやらしい色じゃないからいい

使い込まれた木の階段が、したたかに光っていた

素朴そのもの。館内が暗いので、写真に収めるのが難しい

数年前の西舞鶴駅の時刻表。このまちの生活の一片が窺える

立派なふすま。写真下手くそ勢なので斜めっている

裏の水路は城址のお堀。改修工事の真っ最中だった

宿のおばあさんと、泊まった夜に少し話し込む時間があった。昔は行商人の営業でよく賑わっていたこと、それも大型資本に取って代わられ、今ではロードサイドにドラッグストアばかりになってしまったこと、近代的な東舞鶴のまちとの対照性、大きな雇用先が中舞鶴の自衛隊基地くらいになってしまい、優秀な若者はみんな都会に出て行ってしまったこと…………

それでも、情報の感度が高い旅人を中心に、宿泊客数が今ふたたび堅調なのだという。コロナ禍を経て、海の京都にも熱い眼差しが向けられているような気もする。PRには一切資金を投じていないとのことだったので、なおのこと長く続いてほしい旅館だ。

 

ちなみに、歯ブラシは備え付けがあるが、歯磨き粉がない。寝間着もあるし、部屋のコンセントの数も十分あった。

ただ、できたら布団は打ち直してほしいです。チェックアウトするときに言いそびれてしまった…………。

 

舞鶴のまちを歩く

本当は天橋立や伊根を観光しようと思っていたが、朝出遅れたことと、観光地なら別の機会にでも来るだろうと読んだこともあり、予定を変えて舞鶴のまちを歩いてみることにした。

 

旅館のすぐ近くにある若の湯。ここも登録有形文化財に指定されている

宿泊した夜に入浴で足を運んだ。湯温も雰囲気も最高だった

 

何だか珍しい形のアーケード(?)。

でかい切妻。

特徴的な看板。「かしわ」呼びは関西で根強いのだろうか

お地蔵さんたち。確かここは水路の上だったと思う

空が広く、山の稜線が見えると、どことなく安心するものがある

なんだあれ。めっちゃ富士山やん。
調べてみたところ、あれは建部山といって、またの名を「丹後富士」とも呼んだらしい。

 

吉原入江を歩く

ちょっとしたベネチアみたいなところが、舞鶴のまちのはずれにある。城下町を整備するときに、漁師たちを伊佐津川の右岸に住まわせたのが、ここ吉原である。

足を運んだときはちょうど満ち潮のときだったらしく、橋のギリギリまで水があった。

今この吉原で、どれだけの方が水産業に従事しているかはわからないが、当時の土地割りや街並みをよく残しており、どの道を歩いても愉しい。

 

最後の一枚は、恐らく今でもここで水産業を続けている方の軒先だと思われる。

 

もちろん、建物も素敵なものがたくさん残っている。

最後の一枚は、こちらもやはり銭湯で、登録有形文化財に指定されている「日の出湯」だ。

 

中には、営みが抜けて朽ちてしまった建屋もある。

 

あと、建屋は除却したものの、海水が入り込んでいる区割りもある。

ちょっとした湿地帯みたいだ。葦みたいなのまで生えてしまっている。

 

さすがは漁師町、そこかしこに大きな神社がある。

 

だいぶ歩きごたえのあるまちだった。

観光地めいていないので、わかりにくいし多くの人を動かすものでもないが、こういったまちの資源こそ大切にして、認知が遍くなるといいなぁと思う。