海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

大学院が160km先の話

地元の静岡に住みながら、都内の大学院(修士課程)に通う。大学院までは直線距離で160km。なかなかない経験なので、そのへんの話を枕に話をしようと思う。

どうしてこうなった

2019年12月頃。忙しすぎて心身をぶち壊し、これでは就活も修論も覚束ないということで、休学を決めた。

そのときは、静岡の実家と東京の独り住まいを往復しながら、半年かけて生活を立て直していこう……と考えていた。

 

コロナの第1波が3月下旬ごろ。ちょうど東京に出てきていたが、日を追うごとに状況は悪くなっていった。

最初の緊急事態宣言が出た日の朝。品川駅から朝一番のひかりに乗って、半ば夜逃げのように東京を脱出した。キャリーバッグに入りきらない夏服は段ボール詰めして実家に発送し、独り住まいは滅多に出さない雨戸を閉めてきた。

 

その後の半年間は、静岡の実家に籠り続けた。当時はステイホームが散々叫ばれていた時期で、外出する道理といえば暇つぶしの本を借りるために近所の図書館に行く程度しかなかった。

 

当初の予定だった半年の休学期間が終わった。本当にすることがなかったので、休学期間の終わりのほうはゼミにも出てたし、修論の先行研究を読んでたりもした。当然復学し、授業を受けたりゼミに出たり就活をしたり。
コロナの功罪で、リモートという選択肢が浸透した。そのおかげで、静岡の実家にいながら東京での授業もゼミも就活も参加できた。

 

「これ、もう東京にいる意味なくね?」当然の成り行きである。この8ヶ月の間、ずっと空家賃を払い続けていたので、引っ越すなら早いほうがいい。
というわけで、2020年の11月に東京から静岡へ引っ越した。

 

ちなみに、引っ越したのには他にも理由がある。

  1. まだ心身が本調子でなく、信頼できるかかりつけ医が身近なほうがよかった
  2. この時点で既に静岡をフィールドにして修論を書くことを決めており、感染拡大の中心地たる東京にいると、いつ静岡でフィールドワークができるようになるかわからない

 

この生活を始めてみて良かったこと

①圧倒的にフィールドが近い。
ヒアリングの日時も幅広く設定できる分、データ収集の量は他の修論生を圧倒できる。あと、東京⇆静岡の交通費がまるっと浮く。

②生活コストが安い。
家賃はおよそ半分、市街地であれば基本チャリ移動なので交通費はゼロ。物価もそれなりに安い。

③ちょっと足を延ばせば山と海。
無限の市街地が広がる東京とは大違い。地産地消のリフレッシュは素晴らしい。近所を歩くだけでもいろいろ発見があっておもしろい。

 

この生活を始めてみて良くなかったこと

➊研究室が遠い。
単に遠いだけならなんてことはないが、研究の進捗や悩みについて気軽に後輩に相談したり、そうでなくても研究室というある種のコミュニティの中で、共通低音のようなテーマで雑談できなくなったのは結構痛かった。次の理由にも続く。

➋同年代の学生がいない。
いないことはないと思うのだが、静岡の学生コミュニティで大学院生を見かけることはほぼ無かった。一番近くて3つ下(現役進学の大学4年生)。気軽に雑談ができる人が少ないと、適度に息を抜くのが難しくなる。これが結構大変だった。

➌独り身は身の置き所が難しい。
東京のほうが、もうちょっといろいろな人が歩いていた気がする。繁華街を歩いても、バスに乗っても、ちょっと下の年代のカップルばかりが目に付いて、「おい……もっといるだろ……独身男で平日の日中から街場をほっつき歩いてるやつ…………」になることが多い。

➍地元で就職した同級生達と休みが合わない。
修論の調査を抱えている都合上、土日は結構スケジュールが埋まっている。一方、地元で就職した中高の同級生達は基本的に土日休みなので、ご飯に誘いづらい。

 

本題。自らの意思で選択することについて

大学院の近隣を離れて、研究対象地に引っ越すという選択。まあ時勢がゆえという点は否めなかったが、生まれてはじめて自らの意思でイレギュラーな選択をしたと思う。

そのおかげで受けた恩恵はいっぱいあった反面、上に書いたように孤独が身に染みる場面も多々あった

 

自分でした選択なんだから、多少の尻ぬぐいくらい自分でしなさい、というのは道理としては間違っていないと思う。ただ、それをみんなが口にしてしまったら最後、イレギュラーな選択に踏み込みたい人の足を永遠に引っ張り続けることになる。

 

「イレギュラーな選択」は「挑戦」とは限らない。第二新卒、子連れの離婚、不本意なUターン……ちょっとした選択が思っていたものと違ったとき、「人とは違う選択」を安心してできる環境はすごく大切だと思う。形やレベル感は違っても、ニュアンスの似た経験は、いつだれがするとも限らないし、「自分にはどうにもできないこと」は「誰かであればどうにかできること」でもある。その「誰か」になったときに、自分なりにどうにかしようという姿勢は大事にしたい、と思う。