海図の裏紙

我が身に降りかかってきたことをつらつら書きます。

旅は行けるときに行き、帰れるうちに帰るべきである②

あらすじはこちら。

とりあえず、この旅行の方針としては
・できるだけ早く本土に帰ることを目指す
・ただし、どうしても本土に戻る手段が確保できなければ、潔く状況を受け止める
ということになった。

 

そんなわけで、明日(9月1日)からは天気も崩れるだろうし、今日のうちに回れるところは行っておこう……と気を取り直し、レンタルバイク屋へ向かったのである。

 

 

レンタル屋のおっちゃん「原チャなら台風来るからしまっちゃったよ」
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!
電話したとき予約はできねえから当日来いって言ったのはあんただろ!!!!!

 

通り道商売もいいところだ。近くの食堂で刺身ランチを食らった。

700円の分量ではなかった。見切れているがこの右側にも刺身が一列あった。
肝心の車海老にはありつけなかったけど、肉厚で美味しかった。

 

ここからはひたすら自分の足とバスと、それらを使いこなすための頭をフル活用して島内をめぐった。

 

イーフビーチ。波が立ち、泳いでいる人はほぼいなかった

赤土とサトウキビ畑。風に揺れて葉がこすれる音が心地いい

比屋定バンタからの眺め①。THE 南の島の展望。

比屋定バンタからの眺め②。遠くにハテの浜が見える

 

比屋定バンタからの眺め③。真下に見えるのは車海老の養殖場

手作り感満載の県知事選ポスター掲示板。

(ブレてるけど)比屋定小学校前のガジュマル。内地で言う正門の桜ポジション。

集落の商店には、広場と椅子が設えられていた

沈黙は金である。

比屋定バンタというのは展望場所の名前だが、ここで一緒になった家族連れの母親さんから、明後日なら一旦台風が南に引っ込むので飛行機も飛ぶのではないか、という説を聞いた。当然のことながら、未来の真実は誰も知り得ない。

とはいえ、一縷の望みを託して9月2日の昼便を予約した。

 

写真マシマシでつづく。

旅は行けるときに行き、帰れるうちに帰るべきである①

社会人になって間もなく半年。初めての夏季休暇が私にもやってきた。
当然ながら旅行に行こうという発想に至る。沖縄でアイランドホッピングをやろうと思い、宿とか飛行機とかフェリーとかをちょっとずつ手配していた。

 

この時期に南西諸島に行くのは初めてではなく、台風のリスク等々は承知の上だった。

 


おいおいおいおioioioioioioioioioioioi

「ふたつの台風が沖縄を挟み撃ちにしていて」「片方は休暇明けくらいまでは居座りそう」そうなるとは思ってなかった。当たりどころが悪すぎる。

 

航空券をキャンセルしようか散々迷ったが、「台風の中沖縄に突撃できるのも、独り旅の特権だろう。とりあえず行けるところまで旅程を進めよう」と思い、休暇初日の朝、羽田から今年最後の久米島直行便に乗り込んだ。

 

実はJALの便を利用するのはこれが初めて。

 

かくして5年ぶりに沖縄に降り立った。

えっなにあの【臨時便】って
というか空港が出発の旅客で溢れかえっているが…………

 

私「久米島からのフェリーっていつ頃欠航になります?」
観光協会の人「もう今日の便から出てないよ
(旅程崩壊の音)

宿の人「帰りの飛行機なるべく早いの抑えときな」
私「えっ今日の午後便から既に欠航出てますけど
(久米島幽閉確定演出)

 

そう…………!!
台風が通り過ぎるまで、この島を出ることはできないのである…………!!

 

つづく

大学院生が社会人になって感じたこと

修論を書き上げ、晴れて修士課程を修了した。
ちゃんと修士になりました。

あざすあざす。

後ろ2年間は大学院を東京に残したまま(?)、修論の調査対象地にひとり引っ越して、授業とゼミはリモート通学という、想像だにしなかった大学院生活になった。
大学一年生の頃、静岡で独り暮らししてぇなあ~~~って冗談のように言っていたことが、まさか現実になろうとは。


とはいえ、正直、この二年間は結構しんどかった。
ちっとも良くならない精神疾患M3の7月まで無い内定、就活が終わったタイミングでプライベートで事案発生*1人生の進捗における自分の劣り具合同じ境遇の人が全然おらず、相談できずに鬱屈して荒み放題だった精神衛生終わらない修論の進捗等々。


修論を書き上げ、就職に伴って再び上京してきた。
大学の同期はみんないるし、社会人一年目で余計なことに悩まなくなったし、資金繰りが頭をもたげて朝しか眠れない日々も過去のこと。まあちょっとストレスが身体に出てたりはするけれど、しばらくは自分の時間を謳歌できるのが何よりも嬉しい。

ちょうどあーだこーだ悩んでいた去年の10月、小学校の高学年で担任をしていただいた先生と連絡を取り、ご飯で一緒させていただいた。そこで言われたこと、今振り返るとまさしくその通りだな…………と思う。

幸いなことに、修論で書いた内容や、研究室で取り組んでいたことが少なからず役に立ち得る業界で勤めることになった。
実際に研修の段階で、自分が修論の調査や研究で学んだことが、周囲の同期達の中でも唯一無二の経験であることを実感した。
業務に対する習熟度はさておき、ある程度自分なりの問題意識を持ちながら目の前の業務にあたれているのは、ひとりで研究とかNPOでの活動とかに飛び込んでいた2年間があったからこそだな、と強く感じる。

でも、それは研究生活を離れてみなければ、気付きようもなかったと思う

修論を書き上げ、研究成果以上に身に付いた視野や知見があった。今はものすごく価値があるものだと思うけど、組織で働き続けると、ついついその感覚を忘れてしまうような気もする。
今感じている違和感は、フレッシュなまま氷漬けにしておいて、いつかちゃんと手触り感覚のある問題意識として言葉にしたいと思う。

*1:お乗り換えされた。

Mihiが覗いた地元・静岡

2020年4月から2年間、地元の静岡で暮らした。

半ば引きこもりだった時期もあれば、修論の調査・執筆で忙しくしている時期もあった。そんな日々の中で私が目にした“ふとした風景”を、Instagramのストーリーに撮りためていた。

東京で5年暮らしたインターバルがあったことで、それまで気付かなかったおもしろい風景や新鮮に映った場面を40枚ほど、静岡のまちを切り取るひとつのケースとして。

(※ほぼ全て無加工です)

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静岡の日常は宝であふれている、と思う。

最後の這いずり回り旅①氷見(と雨晴)

あと一ヶ月で社会人。長旅ができるのも最後だけど、海外には行きづらい。ならば国内で、密を避けながら、行ったことのない場所に行ってみようと思った。雑記程度に、旅の途中で時間があればちょこちょこと。

 

一番最初に降り立ったのは氷見。お隣の高岡は散々行ったのに、なかなか外に出る機会がなかったねぇ。

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数日前まで雪が降り続けたらしいが、この日の暖気で結構溶けたとか。黒瓦の上にちょこんと雪をのせている家々の佇まいは、北陸ならではの生活感だなって思った。

 

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雨どいから溢れる雪解け水。晴れているのに、街のいたるところで水の流れるせせらぎが聴こえるのも新鮮だった。

 

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暮らしと漁業の距離感がわかる風景だと思う。

 

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一方こちらは商店街。道が一本違うだけで風景が全然違う。住商漁混在のまちっておもしろい。

 

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静岡ではあちこちで見る防火建築帯だけど、2階や3階の使われ方が気になる。

 

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テイクアウトのスープ屋さん。店頭にいた店主さんと、窓ガラス越しに目が合って、ついお店まで寄ってしまった。

 

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なんだか不思議な風景。手前は鉄工関連の工場だろうか?

 

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命を落とす危険と隣り合わせの漁業。各町内に神社があって、表の扉が閉まっていても参道は雪かきがされている。魚取社という名前も特徴的だと思う。

 

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高岡に似て、あちこちにお地蔵さん。静岡や東京では見ないから、やはり京文化の影響なのだろうか……?

 

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住と商をつなぐ道。ひとつの風景にふたつの景色が写っているのがいいなぁ。

 

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時間の積層がわかるまち。更新の流れは不可逆だけど、その流れに乗らない道理がないのは、どうにかしないといけないと勝手に思う。

 

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水産業に氷は欠かせない。

 

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まちのど真ん中に銭湯、があったみたい(?)。氷見温泉というドストレートな名前にめちゃくちゃ惹かれるし、中が気になる。多分ガチの温泉だと思うが。

 

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いい文字のある街。カラーテレビの宣伝には、まず文字をカラーにすることが大事な時期があったことも学んだ。

 

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雨晴。晴れていたけど午後だったので、空気がかすんで立山連峰は見えなかった。

南東北出張の話①双葉町と伝承館

東京-名古屋間を、2年ぶりに脱出。行き先は南東北

伝承館を見る

常磐線(の松戸より先)に乗ること自体が初めて。普段乗っている東海道線に比べたら、車窓風景が見応えに欠けるな……と感じた。沿線一つひとつの街のことに詳しかったら、もう少し楽しめたかもしれない。

いわきまで特急ひたち、いわきから双葉までは鈍行。

 

双葉駅から専用の送迎バスに乗って、東日本大震災原子力災害伝承館へ向かう。

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中の食堂で浪江焼きそばをいただく。どちらかというと焼きうどんという感じ?

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館内は撮影OKだったが、なぜか写真が手元にそれほど残っていない。発災当時の災害対策本部や病院の事務所にあった白板や模造紙も展示されていて、生々しさを感じた。

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津波で流されたプロパガンダかばん。皮肉だ。

 

帰りのバスまで時間を持て余したので、復興祈念公園の造成地に立つ展望台まで歩いてみた。

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見ての通り、人間の数より重機の数のほうが多い。

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建物がほとんどないので、空はめちゃめちゃ広い。

 

双葉駅前を歩く

バスに乗って、双葉駅まで戻ってきた。ここでも時間が空いたので、駅前をぷらぷら歩いてみることにした。

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何の気なしに歩いたものが、目にした光景は想像を超えた。

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駅前を北に入ってすぐの商店街。空き地か廃屋しかない
特急停車駅から歩いて2分のゴーストタウン。私がほっつき歩いている間に、巡回のパトカー以外にすれ違う人や車はいなかった。

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この日最も衝撃を受けたのが、一番下の消防団の詰所。シャッターは捲れ上がり、時計は10年前の"あの時"を指したまま動かない。これは震災遺構ですよ、と伝えるものもない。

 

双葉駅前に許可証なく立ち入りができるようになったのは、2020年の3月。9年という月日は、営みを風化させるのに短くはなかったはずだ。

 

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原子力ブームだった当時、浜通りの各町が未来永劫原子力で町政を律することができると考えただろうか。過去に限らず、工業/商業誘致が、地域にとって無期限のペースメーカーにはならないことを、どれだけの人が意識しているだろうか。そして今、持続可能という言葉が浸透してもなお、人工的なひとつのシステムを持続させることの限界に、目を瞑っていないだろうか。

 

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地震大国に原子力発電がフィットしないことと、工業大国として必要な電力量がべらぼうに大きいことと、先進国として足並みを揃えてクリーンエネルギーへ転換する必要に迫られていること。なにかひとつを頭ごなしに否定することは簡単だけど、せめてその対岸にも立てる大人でありたいとは思う。

大学院が160km先の話

地元の静岡に住みながら、都内の大学院(修士課程)に通う。大学院までは直線距離で160km。なかなかない経験なので、そのへんの話を枕に話をしようと思う。

どうしてこうなった

2019年12月頃。忙しすぎて心身をぶち壊し、これでは就活も修論も覚束ないということで、休学を決めた。

そのときは、静岡の実家と東京の独り住まいを往復しながら、半年かけて生活を立て直していこう……と考えていた。

 

コロナの第1波が3月下旬ごろ。ちょうど東京に出てきていたが、日を追うごとに状況は悪くなっていった。

最初の緊急事態宣言が出た日の朝。品川駅から朝一番のひかりに乗って、半ば夜逃げのように東京を脱出した。キャリーバッグに入りきらない夏服は段ボール詰めして実家に発送し、独り住まいは滅多に出さない雨戸を閉めてきた。

 

その後の半年間は、静岡の実家に籠り続けた。当時はステイホームが散々叫ばれていた時期で、外出する道理といえば暇つぶしの本を借りるために近所の図書館に行く程度しかなかった。

 

当初の予定だった半年の休学期間が終わった。本当にすることがなかったので、休学期間の終わりのほうはゼミにも出てたし、修論の先行研究を読んでたりもした。当然復学し、授業を受けたりゼミに出たり就活をしたり。
コロナの功罪で、リモートという選択肢が浸透した。そのおかげで、静岡の実家にいながら東京での授業もゼミも就活も参加できた。

 

「これ、もう東京にいる意味なくね?」当然の成り行きである。この8ヶ月の間、ずっと空家賃を払い続けていたので、引っ越すなら早いほうがいい。
というわけで、2020年の11月に東京から静岡へ引っ越した。

 

ちなみに、引っ越したのには他にも理由がある。

  1. まだ心身が本調子でなく、信頼できるかかりつけ医が身近なほうがよかった
  2. この時点で既に静岡をフィールドにして修論を書くことを決めており、感染拡大の中心地たる東京にいると、いつ静岡でフィールドワークができるようになるかわからない

 

この生活を始めてみて良かったこと

①圧倒的にフィールドが近い。
ヒアリングの日時も幅広く設定できる分、データ収集の量は他の修論生を圧倒できる。あと、東京⇆静岡の交通費がまるっと浮く。

②生活コストが安い。
家賃はおよそ半分、市街地であれば基本チャリ移動なので交通費はゼロ。物価もそれなりに安い。

③ちょっと足を延ばせば山と海。
無限の市街地が広がる東京とは大違い。地産地消のリフレッシュは素晴らしい。近所を歩くだけでもいろいろ発見があっておもしろい。

 

この生活を始めてみて良くなかったこと

➊研究室が遠い。
単に遠いだけならなんてことはないが、研究の進捗や悩みについて気軽に後輩に相談したり、そうでなくても研究室というある種のコミュニティの中で、共通低音のようなテーマで雑談できなくなったのは結構痛かった。次の理由にも続く。

➋同年代の学生がいない。
いないことはないと思うのだが、静岡の学生コミュニティで大学院生を見かけることはほぼ無かった。一番近くて3つ下(現役進学の大学4年生)。気軽に雑談ができる人が少ないと、適度に息を抜くのが難しくなる。これが結構大変だった。

➌独り身は身の置き所が難しい。
東京のほうが、もうちょっといろいろな人が歩いていた気がする。繁華街を歩いても、バスに乗っても、ちょっと下の年代のカップルばかりが目に付いて、「おい……もっといるだろ……独身男で平日の日中から街場をほっつき歩いてるやつ…………」になることが多い。

➍地元で就職した同級生達と休みが合わない。
修論の調査を抱えている都合上、土日は結構スケジュールが埋まっている。一方、地元で就職した中高の同級生達は基本的に土日休みなので、ご飯に誘いづらい。

 

本題。自らの意思で選択することについて

大学院の近隣を離れて、研究対象地に引っ越すという選択。まあ時勢がゆえという点は否めなかったが、生まれてはじめて自らの意思でイレギュラーな選択をしたと思う。

そのおかげで受けた恩恵はいっぱいあった反面、上に書いたように孤独が身に染みる場面も多々あった

 

自分でした選択なんだから、多少の尻ぬぐいくらい自分でしなさい、というのは道理としては間違っていないと思う。ただ、それをみんなが口にしてしまったら最後、イレギュラーな選択に踏み込みたい人の足を永遠に引っ張り続けることになる。

 

「イレギュラーな選択」は「挑戦」とは限らない。第二新卒、子連れの離婚、不本意なUターン……ちょっとした選択が思っていたものと違ったとき、「人とは違う選択」を安心してできる環境はすごく大切だと思う。形やレベル感は違っても、ニュアンスの似た経験は、いつだれがするとも限らないし、「自分にはどうにもできないこと」は「誰かであればどうにかできること」でもある。その「誰か」になったときに、自分なりにどうにかしようという姿勢は大事にしたい、と思う。