夕焼けと、今ここにいる私の話
このブログを立ち上げたのは、休学中に経験した出来事や旅行の記録を、自分の言葉と写真でまとめようと思ったからなのだが、コロナ禍で休学中の計画は全て狂った。旅に行ける情勢ではないし、予定していたボラバイトも無期限の採用見合わせになってしまった。
コンテンツは無いが、久々に文章を書いてみようと思う。
休学中という事実と外に出づらい状況は、私に予期せぬ事態をもたらした。
COVID-19が流行する前は、地元で同級生達に会って事情を話したり、
ちょっと自惚れ話。小学校で同級生だった友達と10年振りに会って話し込んだのだけれど、そのとき言われた「友達になりたいと思った時から中身が全然変わってない」という言葉は個人的ベストオブザイヤーだった。私の小学校時代なんて、大半の同期に除け者として扱われていた黒歴史しかないと思っていた
— M i h i R o p e (@mihirope) February 10, 2020
あるいは東京に出てきて色んな人に会ったり、
研究室を代表して、日本青年館で開催された「全国まちづくり若者サミット」に参加してきました。日本青年館には小学校の修学旅行で宿泊した思い出がありましたが、10年の月日が経ち、建物も綺麗に建て変わってました。まちづくりの同志の方々と、日々の活動で思うところを交わせたのが新鮮でした pic.twitter.com/IVmWNt1kXe
— M i h i R o p e (@mihirope) February 2, 2020
そんな感じの生活の生活を送っていた。
しかし、緊急事態宣言が出されてから、先述の通りあらゆる計画が頓挫した私は、ここ二ヶ月の間、家族とお医者さん以外にまともに対面で話した人がほとんどいない。
「社会との接点がない」とはこういうことなのかと痛感している。
人間とは、社会を構成する生命体である。
社会との接点がないと、それは「人間をやめた」に割と近い。
(因みに私は、休学期間に入る前に専攻の同期から「社会との接点を持ち続けること」を忠告されていた。彼には私の未来が見えていたのかもしれない)
ここからは私の性格上の話。社会との接点を失った私、自分の意識の向く先がそれまで「他者と自分が半々くらい」だったのが、「常に自分に意識向くマン」になってしまった。これはかなり辛い。ちょっとしたことで自分の黒歴史がフラッシュバックするようになったり、「自分がこれまでしてきたことは果たして正しかったのだろうか」と自問自答するようになったり。多分このエントリを書いたことも、時間が経てば後悔することになると思う。
結果どうなったか。自信がなくなり、数年かけて心の中から追放したはずの「卑屈さ」がカムバックした。
二年前に心の中から追放したはずの李徴が、コロナ自粛と休学期間のコンボで戻ってきてしまっているようでとても辛い
— M i h i R o p e (@mihirope) May 30, 2020
こいつをまた追放せねばならない。とはいえ、一回追い出しているはずなので、今度はそんなに時間はかからない…………と思いたい。
話は変わって、これは最近撮った夕焼け。最近は夜の19時を過ぎた頃、晴れていればこんな風に西の空に夕焼けを拝むことができる。
関係ないが、私はいつも夕焼けを見ると「高級なお菓子みたいだな……」と思ってしまう。この夕焼けなんかは、薄紫色のゼリーの上にピンクの綿菓子が載っかっていて、食べたらどんな味がするんだろう、という具合に。
私は夕焼けを写真に収めるのが割と好きだ。
夕焼け pic.twitter.com/naDOuNEsKX
— M i h i R o p e (@mihirope) December 1, 2019
今日の夕焼け pic.twitter.com/LfpWX1M0Kn
— M i h i R o p e (@mihirope) January 29, 2020
夕焼け after 日没 pic.twitter.com/LO1EWpQrC7
— M i h i R o p e (@mihirope) February 9, 2020
実はこのブログの背景も、夕焼けの写真だったりする。
好きなことに理由はないと言うが、夕焼けの写真を撮るのが好きなのにはちゃんとした理由がある。それは、「夕焼けは、見る場所も時間も違えば、絶対に同じものに巡り合えない一点モノだから」。
「人間は社会を構成する生命体」であると先述した。しかし同時に、「人間は時空間に生きる生命体」でもある。
私が見上げる夕焼けは、「今」「ここにいる」私にしか見えない夕焼けである。他の人は絶対に見ることのできない夕焼けを、私は仰ぎ見ている。
社会と隔絶された存在になっても、私には生きる価値があると思いたい。
同じ目を持っていても、見える景色が同じ人なんてひとりもいないから。
これは晴れた日の夕方、西の空に広がるその日その時限りの赤い景色と、それを仰ぎ見る私がいる、ただそれだけの話。